阪神のピッチャーから驚きの転身。「日本一不器用な俳優」の人生を変えた出会い
「嶋尾康史」。名前だけではピンとこないかもしれないが、顔を見れば「どこかで見たことがある」と感じる人は少なくないはずだ。
それもそのはず。彼は1987〜96年まで阪神タイガースの投手として活躍し、その後は2000年放送のフジテレビ人気ドラマ『やまとなでしこ』、2021年の日本アカデミー賞で12部門を受賞した映画『Fukushima50』など数々の作品に脇役で出演している俳優の嶋尾康史さん(53)だ。
今では名脇役のイメージが強いが、野球でも記憶に残る選手だった。東洋大姫路高校(兵庫)3年生時に出場した1986年夏の甲子園では、後に大リーグでも活躍した長谷川滋利と並ぶ二枚看板投手として活躍し、ベスト8入り。その年のドラフト会議で阪神から2位指名された。
虎党の語り草になっている1992年シーズンは25試合に登板し、1勝2敗1セーブ、奪三振38、防御率2.39という好成績で、惜しくも優勝を逃したが、阪神の快進撃に貢献した。
元プロ野球選手のタレントは多いが、俳優として本格的に活動している例となると数えるほど。意外な転身の裏には、思いもよらない“奇縁”があった。
“大魔神”との対戦がきっかけでピッチャーに
子供の頃は野球にあまり興味はなかったが、野球好きの父親の強い勧めで小学校4年生の時に少年野球チームに入り、中学校の部活でも野球を続けた。高校は強豪校・東洋大姫路に進学したが、1〜2年生時は背番号をもらえず、補欠のまま終えると思っていた。
転機が訪れたのは2年生の夏。先輩たちが甲子園で優勝候補の東北高校(宮城)と対戦したことが人生を大きく変えた。
「東北のエースは後の“大魔神”佐々木主浩さんでした。佐々木さん対策の練習で、体格が似ていた僕がバッティングピッチャーを務めることになったんです。小学校では内野手、中学からはずっと外野手で、ピッチャーなんか一度もやったことなかったのですが、『肩が強いから球も速いし、練習にはいいだろう』って」
残念ながら先輩たちは東北高校に敗れたが、3年生が引退するとついに背番号を手にした。しかし、ポジションは外野手ではなく、まさかの投手だった。
「バッティングピッチャーをやった時に、監督がイケるって思ったようです。周囲も褒めてくれたので、当時は試合では全く打たれる気がしませんでした。甲子園の準々決勝で敗れましたが、長谷川には悪いけど、僕はしっかり抑えました(笑)。プロも含めて野球人生で一番自信に満ちあふれていた時期だったかもしれません」
震災でのケガの真相は…
だが、プロになれるとは夢にも思っていなかった。
「だってピッチャーを始めて、たった1年ですよ。阪神に2位指名された時は『なんで?』って、びっくりでした。だから、プロになれたのは佐々木さんのおかげなんです。向こうはご存じないでしょうけど(笑)」
プロ入り翌年には1軍で登板するようになり、前述の92年シーズンは大活躍。さらなる飛躍が期待される中で悲劇に見舞われた。
「来シーズンこそは優勝と燃えていたのですが、春のキャンプで右肘を壊してしまい、1994年と95年に“トミー・ジョン手術”を受けました。手術は成功したのですが、調子が良くなっては、また故障を繰り返し、1軍に戻ることはできませんでした」
嶋尾さんのケガといえば、ネット上では「阪神・淡路大震災で割れた窓ガラスの破片が肩に突き刺さり、傷は背中まで達し、傷口の長さは15センチに及んだ」という記述が見受けられるが、本人に確認してみると「それは全くのでたらめですね」と大笑い。
「当時は神戸に住んでいて、爆弾が落ちたかのような揺れでしたが、幸いにもかすり傷ひとつありませんでした。すぐに大阪の知人の家に避難して、何度か球団に電話したのですが繋がらず、そのまま一晩が過ぎてしまったんです。翌朝、喫茶店でモーニングを食べていたら、スポーツ紙に『嶋尾、行方不明』と書いてあるのを目にして、むちゃくちゃ焦りました(笑)。これが実際の出来事です」