会社員を3年で挫折した「元イジメられっ子社長」が起業以来、増収増益できた訳
あっと言わせるような、目を引く広告やプロモーション。洗練された映像やWEBやグラフィックに思わず心惹かれる。クリエイティブ業界は、人の機微に触れるアウトプットを出し続ける仕事である。
そんな業界の波に揉まれつつ、様々な紆余曲折を経て会社を起こしたのが、株式会社EPOCHの石澤秀次郎氏だ。
ダイソーやデサントなど大手企業のブランディングを手がけるほか、業界活性化のためのイベントを主催したり、最近では自社サービスの「スケコン」の開発を行ったりしている。石澤氏が掲げる“正しい諦め”とは何なのか。なぜ、起業以来、増収増益なのか。そこには、執拗な情念と未来を予見するための洞察力があった。
幼い頃から「変な奴」とイジメられていた
石澤氏が制作会社を起業したのは、育った環境が大きいと言う。
「親はCMのロケ地を確保したり、海外のエージェントとやりとりしたりする、ロケーションコーディネーターの会社を経営していました。広告業界に関わる仕事なので、家にはクリエイティブ関連の写真やアート本がたくさん置かれていました。そのような環境で育ったこともあり、小さい頃から『こういうカッコいいもの作りたい』と憧れを持っていましたね」
しかしその反面、親の仕事柄や人と異なるライフスタイルを送っているところが、「変な奴だな」と同級生から揶揄されることもあったと当時を振り返る。
「今でも思い出すのですが小学生の時、運動会になると毎年角刈りのMA-1を着た父親が、村西とおる監督ばりのカメラを担いで、現在のコミケ会場でも見ないような望遠レンズを装着し、徒競走でビリの私をジャングルジムの上からゴルゴ13のごとく狙って撮影していました。当然、そんなことをしている親御さんは誰もいませんので目立ちます。それもあって、毎年運動会はわたしにとって本当に1年で一番憂鬱な日でした」
高校時代の出合いが転機に
「これ以外にも、夏休みの旅行先が両親の独断により、マレーシアの首狩り族の集落に3泊4日させられたりと、小学生の一般的な家庭とは大分変わった生活をしていました。そして、そんな自分ですから、意図せず周囲の人と価値観が合わないことも多く、勉強も運動もできなかったので、当初からよくイジメられていました」
親から離れたい。普通の生活を送りたい。そう考える石澤氏にとって、ひとつの転機となったのが高校時代に出会った「ファッションとカルチャー」だった。