炎上しても人生を謳歌…デヴィ夫人にならう「他人の目を気にしない」生き方
タ:大切な人のために生きる
《私という娘があったことは忘れて。今、私には新しい義務があるの》※2
インドネシアに嫁ぐことになったデヴィ夫人は、母親にこう言い残し日本を発ちました。この発言をデヴィ夫人はいまだに後悔しているといいます。
デヴィ夫人は、密造酒のメチルアルコールを飲んで失明した父、障害を持った母、気の弱い弟と暮らしていました。定時制高校に通う傍ら、千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に数百倍の難関をとおり就職しました。その後、内外の政財界やセレブが出入りする赤坂のクラブで働いたのです。
水商売への偏見が強い時代のことです。自分を見初めた大統領の胸に飛び込んだのも、強い向上心のなせる業でした。しかしながら、直後の心ない報道で母は心を病み亡くなり、その葬儀の数日後、大統領の資産目当ての詐欺に騙されていた弟は自殺してしまったのです。
「なぜ、あの時に、家族を守れなかったのか」といまだにデヴィ夫人の心にトラウマとなって残っています。いままで、誰のために生きてきたのか。他人への配慮や世間体よりも、大切な人のために生きることを決意したのです。
ク:悔しさや怒りを生きぬく原動力に
《怒る力こそ生きる力》※3
デヴィ夫人は子供の頃、近所のお姉さんが赤い口紅を付けて、アメリカの進駐軍の兵隊の夜の相手しているさまを見て、「絶対に外国人を見返してやる」との悔しさが生まれたそうです。その後の立身出世ぶりはご存じのとおりです。
デヴィ夫人は悔しさや怒りは自己実現の原動力として肯定的に捉えています。空気を読んで、感情を納めることはしないのです。