織田信長と豊臣秀吉のオモテとウラ。“天才的な人物”と言われるワケは
最新の研究で判明!秀吉の野望とは
そのほか、秀吉が高齢すぎて、思考が衰えていたので、中国大陸を侵略できると楽観的に考えていたという“秀吉ボケた説”もありました。
しかし、最新の研究では、「秀吉は東アジアにおける貿易の権利の獲得を狙っていたのではないか」という説が浮上しています。朝鮮出兵が行われた時期、世界は大航海時代に突入しており、遠く離れたヨーロッパ諸国がアジアとの交易を盛んに行っていました。海外交易を重ねるにつれて、日本も「外国との貿易は儲かる」と勘づきます。
もともとお金には敏感な秀吉が「もっと儲けるためにも、東アジアでの海外交易利権を確保したい。そのためには、アジアの利権を握っている中国大陸に進出しよう」と考えても、決して不思議ではありません。そこで、彼はアジアの貿易の利権を確保するべく、1592年と1597年の2度に渡って、朝鮮出兵を実行したのだと考えられています。
朝鮮出兵が招いた豊臣家は崩壊への扉
東アジアで貿易する権利を手にするためには、中国大陸に拠点を築くしかない。その足掛かりとして、まず秀吉は朝鮮へと攻め入ります。実は、秀吉自身は初期のころ、朝鮮占領に対して、「何の苦労もないだろう」とかなり気楽に考えていたようです。
そのことは、秀吉が中国について語った際に、「長袖の国」という表現を使ったことでも明らかです。「長袖の国」とは、官僚の国であるという意味です。つまり秀吉は、「中国は頭でっかちな官僚の国なので、戦争しても強くないはずだ。これまで国内で長きにわたる戦乱の世を生き抜いてきた日本の武士が、そんな官僚の集まりである中国に負けるわけがない」とザコキャラ扱いしていたのです。
しかし、島国の日本と違って、中国は大陸に位置する国。四方八方から常に異民族の脅威にさらされており、中国の人々は戦慣れしていたため、ザコキャラどころかボス級に戦闘能力は高めでした。同時に、挑戦の民衆からも激しい抵抗にあって、日本の武士たちは苦しい戦を強いられます。それでも、秀吉は朝鮮出兵をやめませんでした。