元マクドナルド社長が“タピオカ屋”になったワケ「30年前のアップルと似ている」
出店攻勢をかけ、数年後に400店舗を
アジアンティーカフェとしてのブランドバリューを出すべく、タピオカ以外にも高品質なお茶やコーヒー、ゴンチャオリジナルの「フルーツ ビネガー」といったドリンクメニューの拡充や、お茶とともに味わえる「彩々粥(さいさいがゆ)」といったフードメニューを展開し、新たな顧客層への訴求を行なった。
さらに、顧客との接点を増やすために店舗数の拡大にも力を入れる。2015年に日本上陸以来、5年で55店舗、2020年末までで90店舗に達したが、原田氏は「数年かけて400店舗を目指す」と目標を掲げる。
「2020年の11月に東京駅の『グランルーフ フロント』内に旗艦店をオープンしましたが、テイクアウト専門のスタンド業態だけでなく、カフェのようにくつろげる店舗も今後さらに出店していきます。出店戦略としてはFC(フランチャイズ)展開を拡大させ、顧客接点の最大化を図ることで、長期的に成長し続けられる土壌を作っていく予定です。
また、コロナ禍でニーズの高まるデリバリー事業にも力を入れており、ブランド毀損の恐れがない飲食店と提携したゴーストキッチン型の業態を始め、ゴンチャメニューのデリバリーを可能にすることで、さまざまなニーズに応えられるようにしていきたい」
「社長になろう」とは思っていなかった
“原田マジック”とも呼ばれ、「異業種を渡り歩くプロ経営者」としてその手腕を発揮してきた原田氏だが、「プロ経営者とは呼んでほしくない」と語る。それは「経営者人生を歩んできたのはある種、巡り合わせによるものだから」だという。
「『プロ経営者として異業種を渡り歩いてきた』とよく言われるんですが、実は社長になろうとは全く考えていなかったんです。私のキャリアはエンジニアからスタートしました。その後は営業、そしてアップルではマーケティングに従事し、1995年からはアップルの米国本社にてマーケティングVP(バイスプレジデント)を務めました。
ちょうどその頃のアップルは、マイクロソフトが発売した『Windows 95』との熾烈なPC覇権争いを意識するあまり経営が迷走し、業績不振に陥っていた状況でした。それは当時の日本法人も一緒で、経営が振るわずに苦戦していた矢先、突然米国本社の役員から『原田が日本の社長をやれ』と言われたんですよ」
1997年にアップル日本法人のトップを任された原田氏は、アップル製品を日本に根付かせるために徹底的な変革を行う。卸しや販売店を厳選して絞り込み、販売インフラを刷新。また、量販店の売り場の一角に備える「アップルコーナー」や直営店の「アップルストア」など現在の流通チャネルの礎を築いた。
「事業基盤を構築するときに、根底にあるのは“お客様の満足度”です。顧客満足度を高めるために無駄な部分はカットし、スリムにする。ヒト・モノ・カネといった経営リソース配分を顧客起点に立って考える。顧客価値を高めるには何が必要かを常に考え、戦略を実行していくというのが私のビジネス理念の基本となっています」