「斎藤佑樹と泣きながら握手した」元ソニー31歳が語る、起業までの半生
大人になった時に、どんな仕事に就くのか。思いもしなかった仕事に就く人がいれば、幼い頃には存在しなかった仕事をする人もいる。
甲子園で“ハンカチ王子”こと斎藤佑樹擁する早稲田実業が旋風を巻き起こした2006年の夏。チームの「5番レフト」として活躍した船橋悠さん(31歳)は現在、自ら創業した株式会社 Liberty Bridgeの代表取締役社長を務めている。
高校卒業後、早稲田大学に進学し、大手電機メーカー、ソニーに就職。そんな彼が、なぜ起業家という道を選んだのか? 本人に聞いた。
選手の自主性を重んじる校風
――早稲田実業ではどんな高校生活を送っていましたか?
船橋悠(以下、船橋):高校野球と聞くと、いわゆる「練習漬けの毎日」を想像する方が多いですが、早稲田実業はそんなことありませんでした。もちろんそういう部活もあるのかもしれませんが、野球部は他の生徒と同じ授業やテストも受け、授業もみんなと同じく15時まで出席していました。練習は専用のグラウンドで行われるのですが、場所が八王子の南大沢と(早実がある国分寺市から)やや遠いので、練習が始まるのは16時頃。1日の練習時間は3~4時間でした。
――それは意外ですね。野球部で練習はどうでしたか?
船橋:印象に残っているのは、和泉(実)監督の「バッティングフォームは船橋に任せるから自分で考えてやってごらん」という言葉。大雑把に聞こえるかもしれませんが、この選手は型にはめて教えるとダメになるから、のびのび練習させたほうがいいと判断してくれたと思っていて、基本的に選手の自主性を尊重した練習方法でした。
僕は肩が強くないので、勝負どころではかなり前進守備をしていたんです。それも、監督の指導ではなく、僕なりに考えて決めたことでした。チームメイトには、僕の肩が強くないこと、打球が頭を抜けて長打になるよりもギャンブルかもしれないけど、1点取られないほうが大切だと伝えて、納得してもらっていました。
――では、かなりのびのび練習できたんですかね。
船橋:そうですね。選手が自主的に判断したことで失敗しても、それを監督から批判されたり、否定されたことは一度もありませんでした。
今思うと、それは野球部だけでなく、校風だったのかもしれません。その意味で早実は自分に合っていましたし、ここ以外の高校だったら途中で野球をやめていたかもしれません。
印象に残った試合は「甲子園ではなく…」
――印象に残った試合はやはり甲子園ですか?
船橋:もちろん甲子園もですが、一番は2006年夏の西東京大会の決勝戦です。相手は日大三高で、自分が延長戦でサヨナラヒットを打った試合です(笑)。手前味噌ですが、今でもあれは「激闘」というに相応しい試合だと思っていて。
かなり拮抗した試合の延長で、斎藤がバント処理を暴投してしまい、1点失ってしまったんです。延長戦での1点ってかなり大きくて、ベンチも「もう、ここまでか」という諦めムードが漂っていました。
ただそこから代打の神田がツーベースヒットを打って、さらに敵の失策も絡んで、同点に追いついたんです。それで最後、自分がサヨナラヒットを打てて、それが甲子園出場の決定の瞬間でした。短い僕の野球人生の中でも一番しびれた試合ですね。