今年で120年、食堂車の歴史を味わおう。鉄道博物館で企画展開催
第3章:食堂車の廃止と復活
【1940年代半ばから1950年代半ばまで】
1940年代に入ると、第2次世界大戦(太平洋戦争)の激化により、鉄道は旅客輸送から軍事輸送中心へシフト。1941年に金属回収令が公布されると、食堂車の調理器具などを供出せざるを得ない状況に追い込まれ、1944年4月1日の時刻改正で、食堂車、寝台車、1等車が廃止された。
日本は1945年8月15日に終戦。9月2日の降伏文書調印から、1952年4月28日の講和条約発効まで、日本は連合国軍の占領下で統治される。食堂車は連合国軍が接収し、進駐軍専用列車として連結された。
1949年6月1日、公共企業体日本国有鉄道(以下、国鉄。現在のJRグループ)が発足。9月15日、東京―大阪間に特急〈へいわ〉、東京―鹿児島間に急行〈きりしま〉の運転をそれぞれ開始するとともに、誰もが利用できる食堂車の営業を再開した。1951年、石炭レンジに比べ、操作しやすい電気レンジが登場。現在でも現役車両の食堂車に用いられている。
第4章:食堂車の時代
【1950年代半ばから2000年代まで】
高度経済成長期に入ると、幹線の電化が進められ、蒸気機関車から電車主体の時代へ変わってゆく。
1958年11月1日、東京―大阪・神戸間を結ぶ特急〈こだま〉が登場。立食形式の簡易食堂車として、ビュフェが連結された。この車両はビュフェと座席車の合造車で、“1両まるごとビュフェ”は存在しない(※編集部注:「ビュフェ」の表記は国鉄やてっぱくの案内表記に従う)。
メニューはサンドイッチなどの軽食中心で、コーヒーメーカー、トースター、冷蔵庫など当時最新の電化製品が導入された。その後、別の車両にて寿司やそばを販売し、話題を呼んだ。
一方、食堂車は長距離列車に欠かせない存在となり、隆盛を極める。特に1960年代前半から1970年代前半までは、もっとも脂がのりきった時期と言えるだろう。
1964年10月1日に東海道新幹線が開業すると、5・9号車にビュフェを設置。椅子を設け、富士山を眺望しながら食事ができるのだから、当時としては至福のひとときだったと思う。そして、1974年から山陽新幹線岡山―博多間の延伸開業に備え、食堂車を連結。人員の確保が必要になり、在来線の一部列車において、食堂車の営業を休止する措置を取った。
その後、列車のスピードアップ、国鉄の相次ぐ運賃値上げ、航空機の発展などにより、食堂車が衰退。1986年10月30日をもって、在来線昼行列車での営業が終了した(新幹線は2000年3月10日で営業終了)。
一方、夜行列車は東京―博多間の寝台特急〈あさかぜ1・4号〉のグレードアップに着手し、食堂車を改装の上、メニューも充実。分割民営化後、JR東日本・北海道は上野―札幌間の寝台特急〈北斗星〉に予約制フランス料理を導入し、新風を吹かせた。
また、JR九州は1992年、博多―西鹿児島(現・鹿児島中央)間にエル特急〈つばめ〉を復活させる際、787系にビュフェを連結。水戸岡鋭治氏のデザインと相まって、注目を集めた。
第4章では、実際に使われた食堂車やビュフェのメニュー、図面、車両番号板などが展示。食堂車の黄金期を感じ取ることができよう。また、私鉄の食堂車、ビュフェも紹介している。