あんぱんもジャムパンも銀座発!菓子パン文化をつくった老舗企業とは【実は日本が世界初】

身近な商品が実は日本で生まれたという意外な話を紹介する連載。今回は、日本人にとってなじみ深いあんぱんやジャムパンが日本で生まれたという話を紹介します。
西欧の酸っぱいパンを甘く日本人好みに

あんぱんが日本で生まれたという話をする前に、そもそもパンは、どのように日本で広まっていったのか、軽くおさらいしておいたほうが良さそうです。
学校の授業で英語を習うときに「パン」が英語でないと知り、驚いた経験のある日本人は少なくないと思います。「パンは何語なの?」と疑問に感じ、ポルトガル語だと教わって二度驚いた人もまた、少なくないと思います。
パンは、室町時代の後期に、ポルトガル人の来訪をきっかけに日本にもたらされた食べ物とされています。16世紀後半には長崎で、パン製造が商業的に行われるようになり始めたという歴史もあるそうです。
その長崎出身の当麻五左衛門、および梅吉という人と、木村安兵衛という人が、東京府職業授産所で出会った瞬間が、あんぱんの歴史を振り返るときに、すべての起点となります。
後に木村屋を創業する木村安兵衛さんは当時、常陸の国(現・茨城県)出身の人で、本家を頼って江戸へ出て、授産所で事務職を務めていました。
その木村さんが、長崎でコックをしていた上述の当麻五左衛門さん、および梅吉さんに、製パンの方法を習ったとされています。
大正時代初期の新聞によれば、
“パンて一体、何だか聞いたことのないものだが、毛唐人の食い物なら日本人だって食って毒になるものでもあるまいと”(日本洋菓子協会連合会のホームページより引用)
思い、木村さんはパンづくりに取りかかります。
しかし、現地流の本格的なパンは、酸っぱくて硬かったため(今でも、ロシア、ドイツなどヨーロッパの伝統的なパンを好まない日本人はいるのではないでしょうか)、砂糖を入れる、酒まんじゅうづくりに用いられる酒種を使うなどして味を改良しました。
その後、パンの将来性にかけた木村さんは1869年(明治2年)、51歳の時点で、文英堂(現・木村屋)を開店します。江戸城が、新政府軍によって無血開城された翌年の出来事です。
ブレイクのきっかけは明治天皇!?

開店からさらに次の年、現在の銀座付近に移転し、屋号を「木村屋」とあらためます。それから数年後の1874年(明治7年)には店舗を完成させます。
ここあたりの年号は、さまざまな記録によって異なるので、あくまでも企業公式ホームページの情報に準じますが、銀座尾張町(現・銀座4丁目)に完成させたそのお店で同年、小豆あんをパン生地で包み、焼き上げたあんぱんをいよいよ売り出しました。
“食パン類のホップスを得ることは、なかなか困難であったから、種を改良して、白米から造る所謂”酒種”を工夫した”
“砂糖を多量に用いた日本人むきの”菓子パン”生地を造り、これに餡を包んだ”
(日本洋菓子協会連合会のホームページより引用)
こうした工夫を重ねた和洋折衷のあんぱんは、日本人の好みを確実にとらえます。〈たべもの起源事典〉(東京堂出版)によれば1日1万5,000個も売れたと書かれています。
その木村屋のあんぱんを試食した同郷の水戸藩士の山岡鉄舟(鉄太郎)が、1875年(明治8年)、東京にある水戸藩下屋敷に明治天皇が行幸された際に「陛下に召し上っていただこう」と献上を世話します。
あんぱんを召し上がった明治天皇、および皇后陛下からは「引き続き納めるように」とのお言葉が下されます。その出来事が評判となってあんぱんは、一気に人々に広まっていくのですね。
明治天皇に献上された日は4月4日。この日は、後に「あんぱんの日」と制定されました。

ちなみに、1900年(明治33年)、木村屋の3代目である儀四郎によってジャムパンも生み出されます。あんぱんもジャムパンも、菓子パンという独自の文化が広まった日本から生まれた、日本独自の食べ物なのですね。
[文・坂本正敬]
[参考]
※ 木村屋のあゆみ – 木村屋総本店
※ あんパンはいつ頃できたか。 | レファレンス協同データベース
※ 長崎とパンの関係とその歴史について – 長崎女子短期大学紀要
※ 第9回 餡パンの木村屋 – 日本洋菓子協会連合会
※ 沿革 – 木村屋総本店