年収186億円!「カタールW杯得点王」エムバペの“恐るべき幼少期のエピソード”
「単なる夢見屋さんだと思っていたよ」
「ウィルフリードは、選手として、そしてコーチとしても私を育て上げてくれた。自分にとっては2番目の父親みたいな存在だったこともあって、キリアンのことは赤ちゃんのときから知っていたよ。今もよく覚えているのはあいつが4歳のときのことで、右手を胸に当てて国歌ラ・マルセイエーズを歌っていたな。もう6歳か7歳の頃には『いつか僕はワールドカップで活躍するから見ていてね』と言っていたよ」
別の元チームメイトからも「この頃からバロンドールを獲得して、プロ選手になり、レアル・マドリードに行きたいとわめいていたよ。あんまりうるさいもんだから『黙れっ』て言っていたけどね」という証言があるほどだ。リッカルディは続ける。
「あいつが将来のことを真剣に語り出すときには、笑顔で受け流していたよ。兄貴のジレス・ケンボと同じようにクレールフォンテーヌ、レンヌへと進んで、フランス代表、そしてマドリードに行くってね。我々はあいつのことを単なる夢見屋さんだと思っていたよ」
トップレベルまで行けることは明らかだった
だが、ピッチ上で見せる少年の資質の高さは誰の目にも明らかだった。それも上のカテゴリーでの話だ。スネとリッカルディが昔話に花を咲かせる。
「私があいつの指導をしたのは、飛び級でU―10に入ってきた1年間だった。練習中、テクニックがずば抜けているのはひと目でわかったよ。フィジカルの問題がなければ、すぐにトップレベルまで行けることは明らかだった。U―7にいたのは4か月だけで、いつも周りは1996~97年生まれの選手たちだったよ。キリアンの誕生日は一年の終わりの12月だったから、実質3歳年上の選手たちと対戦していたことになるな」(スネ)
「それでも、いつもピッチ上では一番の選手だったよ。一気に戦況を変えてしまうんだ。即座に、一瞬でだよ。上のレベルでもどうすれば一瞬で相手マーカーを振り切れるか、仲間にフリーのスペースをつくってあげられるかが完全にわかっていたんだ。あいつの一番の資質は何かって? ボールを持ったときのチェンジ・オブ・ペース、緩急さ。あればかりは生まれつきのものとしか言いようがない」(リッカルディ)