安倍元首相の国葬の“議論なき決定”は、なぜおかしいのか
議論なしの決定は民主主義に反する
岸田さんは安倍さんの死からかなり早い段階で国葬を発表しましたが、どういったロジックで決めたのか? ここにまた民主主義が出てきます。民主主義の根幹である選挙中の銃撃を“民主主義への挑戦”として国葬とするならば、国葬によって日本が民主主義国家であると示す必要があるはずです。
民主主義的とはどういうことかと言うと、今、一番行われていないことです。岸田さんが勝手に決めて、こういうふうになったからよろしくと言う。ただし議論は一切行なわれていないわけです。これが明日開催しなきゃいけないとかならまだわかりますが、9月27日に行う予定のものを議論も何もなしで“代理人風情”が勝手に決めてしまった。
そして、その主催にかかるお金には、主権者が払った税金を使うと。そもそも税金とは、日本を運営するために預けているお金です。税金の使いみちは予算委員会で細く論議され、その審議が国会で行われます。国会ではお金をどう使うかを決めることが非常に大事なんですね。
日本が本当に民主主義国家であるならば、国葬に賛成の立場であろうと反対の立場であろうと民主的な手続きを経て決めること、主権者が自分たちで決めるという意思を持つことが重要です。
国葬が国の儀式であるか?を決めるのが国会
国葬に賛成の立場ならば、根拠法を作り、それに基づいて国会審議を経て、堂々と行うという選択肢を取れるのか。反対の立場ならば、少なくとも自分たちはこういう理由で国葬を反対します、と提示できるのか。
現状、閣議決定をしたからOKだという意見も出ていますが、僕は閣議決定は法律に基づかない何かを決める根拠を預けていませんから、個人的には異を唱えます。
松野博一官房長官は内閣設置法を根拠法とする説明を行いました。内閣設置法4条3項は内閣府がつかさどる業務として「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関すること」と定めています。
この法律は現状根拠法がない国葬が国の儀式に当たるかどうかを説明するものではない。国葬が国の儀式であるかどうか? これを民主的に決める場所が国会です。