日本一安い「ロードサイド電気街」が生まれた3つの理由。北関東YKK戦争の激戦地にも
「道が広い計画都市」が生み出した風景
そして、3つめの要因は「つくばの街づくり」にある。つくば市は研究学園都市として計画的に整備されたため、筑波大学附近の幹線道路は片側2~3車線。さらに、大学が進出した当初はまだ空き地も非常に多かった。
また、1981年には常磐自動車道が開通、さらに1985年の筑波国際科学技術博覧会(つくば万博)に向けた道路整備も進むなど、研究学園都市という性格上、1980年代には広域からアクセスしやすい道路整備も進んでいだ。つくばの「クルマ中心の街づくり」は、この地を「ロードサイド型電気街の聖地」へと変貌させやすかったといえる。
研究学園都市の周辺は「道が広い計画都市」が特徴(つくば駅前)。1981年には常磐自動車道が現・つくば市の谷田部インターチェンジまで開通、1985年の科学博前にも、さらに道路整備が進み、広域集客の足固めになった。
「ロードサイド電気街」はなぜ衰退したか
こうした複数の要因が絡み合うかたちで、秋葉原系、北関東YKK、地場系家電量販店、そしてパソコン専門店、総合スーパーなど複数の企業による競争のもと、さまざまな要因が絡み合うかたちで「日本最大級のロードサイド型電気街」となったつくば電気街。
しかし時代は流れ、つくば電気街に出店していた店舗は2000年以降、経営難などから相次ぎ撤退。一時代を築いた「つくば電気街」は約30年の歴史に幕を下ろすこととなった。つくば電気街はなぜ衰退し、そして消え去ったのか――本連載では引き続き「つくば電気街衰退の歴史」について、紐解いていきたい。
<取材・文・撮影/藤井瑞起・若杉優貴(都市商業研究所)>
参考:
河野重年(1997年)「家電流通最前線レポートー5-秋葉原を圧倒する『つくば電気街』の台頭」激流22(5)
第一家庭電器創立30周年記念推進委員会 編(1989年)「第一家庭電器30周年史」第一家庭電器
東洋経済新報社 編(各年)「大規模小売店舗総覧」東洋経済新報社
日本経済新聞、茨城新聞、電波新聞