人気アナウンサーが明かす「人生最大の失敗」。東日本大震災の中継で
『サンデーモーニング』をはじめ、フリーアナウンサーとしてテレビやラジオで活躍している唐橋ユミさん。前著の反響を踏まえた『会話は共感力が9割 気持ちが楽になるコミュニケーションの教科書』(徳間書店)を刊行し、会話のテクニックを成功例だけでなく失敗談まで包み隠さず綴られています。
前回の記事では大御所の方々とのスムーズな会話をするための方法をお聞きしましたが、そんな唐橋さんが、「プロ失格」とまで思った出来事とは。
小さい頃は駄菓子屋さんになりたかった
――唐橋さんは、昔からアナウンサーを目指していたタイプではなかったそうですね。
唐橋ユミ(以下、唐橋):25歳から出身の福島県のアナウンサーになったので、遅いんです。小さい頃は駄菓子屋の店主になりたくて、そのあとは旅行業界にも行きたかったと思います。
でも大学に行って就職活動するときに、どんな仕事があるのか知らないのに就職するのはどうなんだろうと悩んでしまって、そのまま卒業してアルバイトしていました。あるとき雑誌を見ていたら、「高橋圭三塾」というアナウンサーの養成塾のような募集要項があったので、それに応募してからですね。
――福島県でのアナウンサーが5年契約で、契約終了のときはちょうど20代が終わる頃。別のキャリアに転換することもできたと思いますが、東京で続けられたのはなぜですか?
唐橋:5年って本当に早かったんですよ。「仕事もわかってきて、面白くなってきたぞ」というときで、ここで終われない、自分を試してみたいという気持ちもありました。5年でやめさせるのはどうなんだ、という周りの声もあったんですけども、契約だからしょうがないですね。
そこで、福島県内で別のテレビ局に行くというのもやりづらいじゃないですか。なので、東京に行った先輩アナウンサーもいるし、自分も行っちゃおうと、えいっと飛んでみました。
「メガネ」をつけるようになったきっかけ
――メガネをかけるようになったのは、サンデーモーニングで共演されている関口宏さんの言葉がきっかけなんですよね。
唐橋:そうなんです。それまでは、普段はメガネで、本番のときはコンタクトでした。あるとき会議でメガネをかけていたら、関口さんが「それで出てみもいいんじゃない?」と。おそらく目立たない印象だったので、そう言っていただけたのだと思います。
たしかに、メガネをかけるようになってから名前も覚えてもらえるようになりましたし、関口さんには感謝しています。何より楽ですから(笑)。
――メガネ姿からおとなしい印象があったのですが、高校時代はバンド活動、大学時代はチアリーディング部に所属されていて、ギャップがありました。
唐橋:意外とそうなんです。小学生のときは、スキーの少年少女スポーツ団に入っていましたし、運動神経が良さそうに見えないかもしれませんけど、体を動かすのは好きですね。山ちゃん(お笑いコンビ・南海キャンディーズの山里亮太)とやっている『新shock感』という番組は、自分を出しているほうだと思います。イメージのギャップにファンが離れていくということもありますが(笑)。
なんでしょうね、幼い頃から人を笑わせるのが好きだったと思います。女子高時代に、深夜番組でカメラの前で面白いことをしたらオンエアするという企画があって、友達と福島から東京のスタジオまで行って、コントをやったこともありました。そんなウケなかったんですけど(笑)。