豊臣秀吉の「一夜城」は本当か?現代の技術でも不可能な“歴史の真偽”を検証
天下を平定した後の秀吉は…
文禄4(1595)年、前田利家の娘で養女にしていた豪姫が病気になったとき、狐憑きが原因だと判断した秀吉は、五奉行の石田三成と増田長盛を伏見稲荷大社に遣わし、稲荷大明神宛に、次のような朱印状を差し出しています。
≪宇喜多秀家の妻・豪姫が産後に病にかかり、物怪が憑いたようだ。どうも野狐の仕業だと思われるので、この朱印状を差し出すことにした。この日本において誰が公儀である私のことを軽んじることができようか。誰が私の意志を重んじないことができようか。ましてや畜類においてはなおさらである。
さあ、速やかに彼女の身体の中から退去せよ。この朱印状を発したにもかかわらず、まだ付きまとい、彼女に何か不慮のことが起こったら、伏見稲荷大社を即時に破壊し、さらに狐狩りを毎年おこなわせ、日本国中の狐をことごとく殺し尽くし、その種を絶つつもりである。このことをよくよく承知し、神官たちは祈禱に励むように≫
それにしても、神に向かって脅しをかけるとは、驚くべき傲慢さですね。わずか8年で天下を平定した後の秀吉は、慢心誇大妄想状態になったようです。いずれにしても神罰がくだったのか、ちょうど1年後の5月から病に伏せるようになり、次第に病状は重くなり、ついにそれから数か月後に63歳で死去してしまいました。
<TEXT/河合敦(歴史研究家)×房野史典(吉本芸人)>