「売春島」と呼ばれた離島が「ハートアイランド」になるまで。渡鹿野島の壮絶な歴史
昭和から平成にかけて「売春島」などと呼ばれ、男女の色恋と金、そしてアウトローな印象を近年まで与え続けた島がある。現在も本土からの交通は渡船のみ。三重県志摩市に浮かぶハート型をした周囲7km、約160人が暮らす小さな離島「渡鹿野(わたかの)島」だ。
江戸時代には、地方から江戸へ向かう船が飲料水の補給や風待ちに立ち寄る宿場町のような役割を担っていた渡鹿野島。そのような島が「売春島」と呼ばれるようになった経緯とともに、観光島「ハートアイランド」として歩みはじめた現在について、15年以上区長を務める茶呑潤造さん(73歳)に話を聞いた。
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江戸時代には重要な役割を担った島
江戸時代には、各地方から江戸の関所「下田」へ向かう多くの船が立ち寄り、薪や飲料水の確保、船を後押ししてくれる順風を待つ渡鹿野島。当時の航路には欠かせない、重要な役割を担っていた。
「的矢湾の真ん中にあるこの島は昔、お寺にある井戸から飲料に適したきれいな水が出ていたこともあり、船とつながり栄えていました。男性よりも女性の人口が多かったのは、島外から女の子を養子にもらい、働いてもらっていたからです」
船員を遊ばせるための芸者が風俗産業に
女の子は島周辺を行き来する船に声をかけて商品を売る「なうり(鳥羽では「ハシリガネ」という名称)」が仕事。商品を売るほか、船員の着物を縫ったり洗濯したり、時には“夜の相手”をすることもあったようだ。
「船員は、天気が悪ければ順風を待つために何日も泊まり込みます。そのため、島内には船員を遊ばせるための芸者も出現し、のちの風俗産業へと発展していきました。当時は、生活のためにこのような稼ぎ方をする人も多く、決して特別なことではありませんでした」
渡鹿野島には現在も、「きんせいろう」や「めいげつろう」など女郎屋にちなんだ屋号(店名)が多く残っているという。また、茶呑さんに案内してもらった空き家の中には、昔の置屋を偲ばせる「欄干(らんかん)」のある建物もあった。