なぜ起きる?「どうしても意見が合わない」を乗り越える“哲学的な思考”
人間関係の悪化は会社にもコストに
ではもし、あなたが、この場面での上司もしくは部下の立場であったなら、どう対応しますか? 上司なら、ここでは無理にお願いをしてその後フォローを行いますか? それとも部下なら、遅延しない可能性を妥当性のある数値で語りますか?
どちらにせよ正直この場面ではお互いの意思は堅く難航が予想されます。相手の意見を丸め込んでしまうというのは、時間も精神もかなりの労力が必要となります。さらにその結果うまく好転すればいいですが、解消されない、もしくは今後の人間関係も悪化するとなれば、そのコストは会社にとってかなりの痛手となります。
そのため、世論の中には「意見が合わない人には近づくな」という意見もあります。つまり、和解をしようとするだけ時間の無駄だと……! ただし本当にそれが正しいのでしょうか?
やはり近づくなとはいっても、相手がその場限りの関係であればまだしも、継続的な関係を築く相手であればなかなか難しい場合もあります。その他にいい対応方法はないのでしょうか。
私たちの判断は欲望によって行われる
こうした意見の対立をいかに克服するか。現代の日本の哲学者である竹田青嗣(1947―)はこう言います。
<脱―本体論的認識論は、情動、感情、衝動、欲望から出発する。なぜなら、内的生の世界において「力」を一義的に示すものは「情動性」だからである>(竹田青嗣(2007)『欲望論』講談社)
つまり、私たちが何らかの物事や出来事を受け取り、認識して判断するのは、根源的には情動つまり欲望によって行われていると。
例えば、いま目の前にあるマグカップに入ったコーヒーを飲み物と認識判断するのは、喉を潤したい・気分を入れ替えたいという欲望によって意味づけられています。しかし、それは近くに火元があれば消火したいという欲望から火を消すための水ともなりえますし、一方で相手にイラ立ちを表現したいという欲望があれば相手にかける武器にもなります。