財務官僚を今も苦しめる「馬場財政」の悪夢。戦時を生きた“偉大な総理”の実像
2021年10月に発足した岸田文雄政権。先立って行われた総裁選で岸田氏は「令和版所得倍増計画」を目玉のひとつに掲げていた。この「所得倍増計画」、どこか既視感がある。そう、1960年に発足した池田勇人内閣で策定された同名の経済政策から拝借しているのだ。
実は、岸田氏は、池田勇人と同じ広島県出身で、岸田派のはじまりは池田が創立した「宏池会」だ。今、日本がギリギリ踏みとどまっていられるのは「『池田勇人』のおかげ」と述べるのは憲政史家の倉山満氏(@kurayama_toride)。
“戦後最も偉大な総理大臣”と呼ばれる池田勇人とはどんな人物か。その実像に迫った話題の新刊『嘘だらけの池田勇人』(倉山満)より、二・二六事件、占領期の大蔵官僚時代の池田を紹介する(以下、第1回、第2回に続き、同著より一部編集の上抜粋。)
占領軍に大蔵省が潰されなかったワケ
この頃の大蔵省について、「軍部にいじめられたかわいそうな人たち」のようなイメージを持っている人が多いので、少し補足しておきます。
戦後、アメリカに睨まれた官庁はつぶされました。いわば本丸である陸軍省は当然のように廃されます。海軍省も同罪。内務省は英語のできる人がいないので、陸軍の宿敵だったのに陸軍の仲間と思われて一緒につぶされました。外務省はさすがに英語ができるので、「我々は国際平和協調を説いていたのに強い陸軍に抗しきれないか弱い存在であった」と主張して生き残ります。
そして、大蔵省には外務省よりも英語が上手な人がそろっているので、「横暴な軍部に立ち向かったが力がおよばなかった」との構図を占領軍に信じさせます。詳しくは、小著『財務省の近現代史』(光文社新書、二〇一二年)を読んでいただきたいのですが、大蔵省はアメリカ人を誑(たぶら)かして生き残った役所なのです。
「軍部がすべて悪かった」の歴史観はここに端を発しています。しかし、大蔵省はそんなにか弱い官庁ではありませんでした。
五十を超える東条が、若き福田を接待
ある時、大蔵省主計局の陸軍担当の主査が、出張で満洲にやってきました。主計局とは予算を編成し他省庁がいくらお金を使って良いかを査定する局、主査とは課長補佐のことです。当時の中国東北部は満洲国という独立国で、実質は日本の勢力圏でした。より正確に言えば、日本陸軍の縄張りです。満洲を実質的に支配していたのは、関東軍です。
そんな満洲で、関東軍憲兵司令官は辞を低くして専用機への同乗を求め、渓谷の鉄橋の上で列車を止めて釣りを楽しんでもらおうとした、等々の度を越えた卑屈な態度で官官接待を行ったとの伝聞が残っています(川北隆雄『大蔵省 官僚機構の頂点』講談社現代新書、一九八九年ほか、さまざまなバリエーションがあります)。
この時の関東軍憲兵司令官は「泣く子も黙る」「カミソリ」と言われた東条英機、後の首相です。主査は福田赳夫、これまた後の首相です。五十を超える東条が、三十そこそこの福田をもみ手で接待する。「軍部」と大蔵省の力関係がよくわかる話です。