貧しい救荒食だった「江戸の蕎麦」が“粋なグルメ”になれたワケ
戦国時代に活躍した「武将」と言われると、常に死と隣り合わせで、戦さと権力闘争に明け暮れているイメージだ。しかし、植物学者、稲垣栄洋氏は「戦国武将たちが植物を愛していた」と語る。戦国武将にとって植物を知ることは実利的な意味もあったのだ。
今回は、武将や武士たちと植物との知られざる関係に迫った、稲垣氏の著書『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』より「関東平野が作った蕎麦文化」にかかわるパートを一部抜粋、再構成してお届けする(以下、同書より抜粋)。
幕府の大名対策と街道の松並木
天下統一を果たした徳川幕府は、街道の整備を行なった。具体的には、街道の幅を広げ、宿場町や一里塚を整備し、並木を植えたのである。1604(慶長9)年、幕府は諸街道の改修にあたり「街道の左右に松を植えしめよ」と指示を出している。
古くから街道には、旅人の休息場所とするため木が植えられてきた。もっとも古い記録では、奈良時代の759年の文書に街道の並木について記されている。天下統一を目指した織田信長は、戦乱で荒れ果てていた街道の整備を行なった。そして、その事業は豊臣秀吉、徳川家康へと引き継がれていく。
しかし、幕府が街道沿いに並木を造ったのは旅人のためだけではなく、別の意図があったのではないだろうか。大坂夏の陣によって豊臣が滅びるのが1615年。天下を統一したとはいえ、幕府が街道に並木を整備した1604年は、まだ地方の大名たちが反旗を翻す可能性もあった。つまり万が一の場合、松並木を切り倒し街道を塞いで、江戸へ進軍できないようにする目的もあったと言われているのだ。
関東平野が作った蕎麦文化
広大な水田を拓いたとはいえ、江戸の西側には荒涼とした台地が続いていた。富士山の火山灰が堆積した関東ロームは、作物を作るには適さないやせた土地だったのだ。この荒れた台地で栽培されたのが、やせた土地でも育つソバだった。
ソバは、もともと米や麦を栽培することのできない場所で作られる貧しい作物だ。江戸時代の初期には、蕎麦がきを大根のおろし汁につけて食べていたというから、いかにも貧しい食事である。そのため当時は、江戸でも蕎麦よりうどんのほうが好んで食べられていたと言われる。
しかし、蕎麦は今ではグルメの料理だ。蕎麦通と呼ばれる人たちはコシがどうだ、出汁がどうだ、香りがどうだ、となかなかうるさい。ごくごくシンプルな料理なのに、こんなにこだわりを持たれる料理も珍しい。なぜ貧しい救荒食だった蕎麦の地位は、こんなにも高まったのだろう。それは、関東で創作された濃口醤油のおかげなのである。