宮澤喜一にすら小馬鹿にされた…“戦後最も偉大な総理大臣”の不遇すぎる前半生
戦前の岸信介と池田には雲泥の差が
ところで満洲は岸信介が深く関わっていた土地でもあります。
岸信介は昭和十一(一九三六)年、商工省の役人として満洲国に渡り、満洲経営を行っていました。満洲国の大物五人(東条英機・星野直樹・鮎川義介・岸信介・松岡洋右)を名前の最後を取って「弐キ参スケ」といいますが、その内のひとりが岸です。
いわば事実上、満洲国を差配する絶対権力者です。その後、岸は東条内閣では商工大臣となり、そのため戦後はA級戦犯被疑者として巣鴨拘置所に収監されるわけです。
終戦間際の昭和十九年、岸が国務大臣として国の舵取りをしているとき。池田は岸が踏み台にした満洲に下っ端役人として渡ろうとしていたのです。戦前の岸と池田では、両者の立場には、ここまで雲泥の差がありました。
宮澤喜一にすら小馬鹿にされる不遇
池田が増税に励んでいた頃、昭和十七(一九四二)年四月に同郷の宮澤喜一が大蔵省に入省しています。宮澤を大蔵省に誘ったのは池田でした。誘われたのはありがたいものの、宮澤は大蔵省に入ってはじめて池田の省内での位置づけを理解します。
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私の大蔵省での保証人の一人は、自分が配属された課の課長補佐であった森永貞一郎という人でした。これは後世もみんな、なるほどね、と言います。もう一人は池田勇人氏なので、なんでこんな人が保証人になっているのか、と何度も聞かれました。(『聞き書 宮澤喜一回顧録』二六頁)
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さすがに生前は「政界最悪の性格の悪さ」で鳴らした宮澤です。派閥の領袖の大平正芳が香川県出身なので「田舎者」と罵倒し、竹下登に学歴を聞いて「東大じゃなくて早稲田ですか。せめて政経学部ですよね……以下略」としつこく絡んだ等々の伝説が無数に残る人物です。これでも宮澤基準では池田に恩義を感じている書き方です。
なお、ここで出てくる森永は後に池田や大平の側近で、大蔵次官から東証理事長に天下った後、日銀総裁として二度の石油ショックを鎮圧した、名官僚です。大蔵省では「ドン中のドン」という言い方があるのですが、さらにそのまた「ドン中のドン中のドン」です。