宮澤喜一にすら小馬鹿にされた…“戦後最も偉大な総理大臣”の不遇すぎる前半生
ついに主税局の第一国税課長に出世
当時の陸軍が世論の支持を受けて、無尽蔵の歳出拡大を要求してきたときに天下の大蔵省は拒否できなかった。そして、今現在コロナ禍で政府が愚かな政策決定を強要されています。歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。今は空襲で家を焼かれないだけマシですが、実に滑稽です。
そして、当時の池田勇人は、誤った政策を遂行する側の歯車のひとつでしかなかったのです。
昭和十七(一九四二)年、池田には喜ばしい出来事が起こります。十一月、主税局国税第一課長となりました。このときのことを池田はのちに「はじめて大蔵大臣になったときもうれしかったけれども、主税局の第一国税課長になったときほど、うれしかったことはない」と回想しています(『池田勇人とその時代』七三頁)。
そらそうでしょう。アパルトヘイト下の南アフリカで、「名誉白人」が白人と同じ地位に立てたのですから。そもそも、「大臣になるより課長になる方がうれしい」が大蔵省の価値基準です。ちなみに、昔のノンキャリアの人たちは本省課長になると、親戚を全員呼んで赤飯を炊いてお祝いしたそうです。今は知りませんが。
満洲へ渡ることを考えるも断念
池田は出世していきますが、戦況はどんどん芳しくない方向に進んでいます。十二月にガダルカナル島撤退を決定。天王山のガダルカナルが陥落してからは、日本は苦しく長い撤退戦を強いられます。もちろん、国民生活は、さらに苦しくなります。
戦争末期の昭和十九(一九四四)年、池田は四谷信濃町に転居します。今でこそ信濃町の池田さんと言えば、池田大作創価学会名誉会長ですが、昔は池田勇人でした。そんなことはどうでもいいので次に行きましょう。
この年、池田は東京財務局長となります。課長から局長への「出世」ですが、これ以上は望めないと思ったか、池田は満洲へ渡ることを考えます。大蔵省の先輩である古海忠之に「満洲に呼んでくれ」と頼み、よい返事をもらっています。しかし、母親の反対で、結局のところ満洲行きは断念しています。