ノンキャリア官僚だった「戦後最も偉大な総理大臣」が過ごした“ドサ回りの日々”
10月31日に投開票が予定されている衆議院選挙。就任直後、岸田文雄首相は「令和版所得倍増計画」を目玉のひとつに掲げていた。この政策、どこか既視感がある。そう、1960年に発足した池田勇人内閣で策定された同名の経済政策から拝借しているのだ。
実は、岸田氏は、池田勇人と同じ広島県出身で、岸田派のはじまりは池田が創立した「宏池会」だ。今、日本がギリギリ踏みとどまっていられるのは「『池田勇人』のおかげ」と述べるのは憲政史家の倉山満氏(@kurayama_toride)。
“戦後最も偉大な総理大臣”と呼ばれる池田勇人とはどんな人物か。その実像に迫った話題の新刊『嘘だらけの池田勇人』(倉山満)より、苦境の大蔵省時代の池田氏を紹介する章を第1回に続き紹介する(以下、同著より一部編集の上、抜粋)。
大蔵省入省した池田勇人の同期
池田勇人の同期入省者には山際正道(東京帝大経済学部卒、のちに大蔵次官・日銀総裁)、田村敏雄(東京帝大文学部卒、のちの宏池会事務局長)、植木庚子郎(東京帝大法学部卒、のちの主計局長)がいます。一期下には、終戦時に鈴木貫太郎内閣で書記官長(官房長官)として終戦工作を取り仕切った迫水久常や、後の総理大臣の福田赳夫がいます。
ちなみに植木は池田内閣や佐藤内閣で法務大臣を務め、田中角栄内閣では大蔵大臣となります。角栄と福田が総理大臣のイスを争った角福戦争のとき、田中派の選挙参謀に据えられます。他の角栄側近たちが忙しく動き回っているときに、一人だけ事務所でプロレス中継を見ていたというエピソードが残っているような無能な人です。
大臣になってからも、周囲から煙たがられています。角栄のでたらめな方針を忠実に実行し、狂乱物価を引き起こしました。田中角栄は自分の権力を誇示するために無能な人をあえて要職につけるという悪いクセがありましたが、その嚆矢(こうし)が植木蔵相です。
函館、宇都宮でドサ回りの日々
同期の山際や後輩の迫水・福田が欧米に派遣される中、池田はといえば昭和二(一九二七)年に函館税務署長、昭和四(一九二九)年に宇都宮税務署長と地方回りをしています。はっきり言いますが、「ドサ回り」です。
当時は、外国留学が大変なステータスでした。東大教授になると一~二年、望みの国に派遣される時代です。今では国家公務員志望者が激減していますが、それでも目指す志望動機を聞いてみると、「タダで留学させてもらえるから」という若者が少なからずいます。
税金で修士号をとらせてもらえることが、官僚になるメリットというわけです。今でさえそうなのですから当時の外国留学経験は、ほとんど貴族への昇格のような意味あいがありました。