100万都市・江戸はなぜ人口世界一になれたか?「あっぱれな植物」の正体
戦国時代に活躍した「武将」と言われると、常に死と隣り合わせで、戦さと権力闘争に明け暮れているイメージだ。しかし、植物学者、稲垣栄洋氏は「戦国武将たちが植物を愛していた」と語る。戦国武将にとって植物を知ることは実利的な意味もあったのだ。
今回は、武将や武士たちと植物との知られざる関係に迫った、稲垣氏の著書『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』より「イネはあっぱれな植物」にかかわるパートを一部抜粋、再構成してお届けする(以下、同書より抜粋)。
江戸は飛び抜けて巨大な都市
徳川家康の都市計画を基礎に造られた江戸の町は、17世紀末~18世紀初めの享保期に人口100万人の世界最大都市に発展する。当時、ロンドンやパリは40~50万人都市だったから、江戸は飛び抜けて巨大な都市だった。現在でも東京を中心とする関東圏(1都6県)は、人口4200万人を超える世界最大の都市圏である。
人口が多いということは、過密であるということだ。実際、ヨーロッパと比べると日本は東京に限らず過密なイメージがある。ヨーロッパを旅すると広々とした田園風景を楽しむことができるが、日本はどこへ旅しても所狭しと家が建っているなど、ごちゃごちゃした感じがする。どうして日本は、ごちゃごちゃしているのだろうか。
ヨーロッパの田園風景を見ると、広々とした畑が一面に広がっていて、村ははるか遠くにしか見えない。しかし、これは考えてみると、村が暮らしていくのに広大な畑が必要だったということである。一方、日本は江戸時代の村を見ても、隣り村までの距離が近い。日本では、少ない農地で多くの人が食べていけたのである。
16世紀、戦国時代の日本では同じ島国のイギリスと比べて、すでに3倍もの人口を擁していたとされている。それだけの人口を支えたのが「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物だ。ヨーロッパではジャガイモや豆類など夏作物を作る畑と、小麦を栽培する畑と、作物を作らずに休ませる休閑地の三つに分け、ローテーションをして土地を利用した。
イネはあっぱれな植物
つまり、小麦は3年に一度しか作ることができなかった。この農法は三圃(ぽ)式農業と呼ばれるのだが、3年に一度畑を休ませないと、地力を維持することができなかった。これに対し、日本の田んぼは毎年、イネを育てることができる。一般に作物は連作することができないから、毎年、栽培できるイネはじつにあっぱれな植物なのである。
しかも昔はイネを収穫したあとに、小麦を栽培する二毛作を行なった。ヨーロッパでは3年に一度しか小麦が栽培できないのに、日本では1年間にイネと小麦の両方を収穫することができた。さらにイネは、作物の中でも際立って収量が多い。播いた種の量と収穫して得られた穀物の量の比較を収穫倍率というが、15世紀のデータでは小麦は5倍しかない。
1粒の種を播いて、5粒の小麦しか得られないのである。これに対し、15世紀のイネの収穫倍率は20倍である。現在でも、小麦の収穫倍率は24倍だが、イネの収穫倍率はなんと130倍だ。収量をたくさんとることのできないヨーロッパでは、広い面積で農業を行うしかなかった。広々とした田園風景には、そんな理由があったのだ。
日本の田んぼは手を掛ければ掛けるほど、収量が多くなる。やみくもに面積を広げるよりも、手を掛けて稲作を行うことを日本人は選んだ。この稲作の特徴が日本の過密を生み、日本人の内向きな国民性を醸成したと言われている。