宮澤喜一にすら小馬鹿にされた…“戦後最も偉大な総理大臣”の不遇すぎる前半生
2021年10月に発足した岸田文雄政権。先立って行われた総裁選で岸田氏は「令和版所得倍増計画」を目玉のひとつに掲げていた。この政策、どこか既視感がある。そう、1960年に発足した池田勇人内閣で策定された同名の経済政策から拝借しているのだ。
実は、岸田氏は、池田勇人と同じ広島県出身で、岸田派のはじまりは池田が創立した「宏池会」だ。今、日本がギリギリ踏みとどまっていられるのは「『池田勇人』のおかげ」と述べるのは憲政史家の倉山満氏(@kurayama_toride)。
“戦後最も偉大な総理大臣”と呼ばれる池田勇人とはどんな人物か。その実像に迫った話題の新刊『嘘だらけの池田勇人』(著・倉山満)より、大東亜戦争中から敗戦にかけての池田の前半生を紹介する(以下、第1回、第2回、第3回に続き、同著より一部編集の上抜粋)
第1回⇒就職先で“Fラン”扱い…「戦後最も偉大な総理大臣」の挫折だらけの青年期
第2回⇒ノンキャリア官僚だった「戦後最も偉大な総理大臣」が過ごした“ドサ回りの日々”
第3回⇒財務官僚を今も苦しめる「馬場財政」の悪夢。戦時を生きた“偉大な総理”の実像
そこそこ出世の池田と激動の世界情勢
昭和十二年前半は、広田内閣が一年で潰され、後継の林銑十郎陸軍大将の内閣はもっと早く四か月で潰され、六月に近衛文麿貴族院議長が組閣しました。
直後の七月、支那事変が勃発します。あれよあれよと戦線は拡大し、準戦時体制が本物の戦時体制になってしまいます。名前は「事変」ですが、経済状態からすると戦時体制に入っています。現代の歴史教科書では「日中戦争」と呼ばれます。
池田は昭和十三年十月に東京税務監督局直税部長となります。本省を離れますが東京に留まっていて、半年後の昭和十四年四月には本省に戻り、主税局経理課長となります。それなりに出世しています。家庭的にも子宝に恵まれ、翌昭和十五年一月には次女紀子が誕生します。
「欲しがりません、勝つまでは!」
昭和十六(一九四一)年には、税務講習所の設置を提案し、自ら国税徴収法の講義を担当。また、法政大学の夜間部で財政学の講義を受け持ったりしています(池田会編『池田さんを偲ぶ』財務出版、一九六八年、一三六、一四八頁)。
そこそこ出世しているとはいえ、遅れは取り戻せていません。満枝夫人によると、当初は本省に帰れたことを喜んでいた勇人も、だんだん不機嫌になったといいます。宴会や結婚式などに出ると「昔の同僚ははるか上席にいるのに、自分は末席に座らされる、くそおもしろくないから早く帰ってきた」と言って家でお酒をがぶ飲みするようなことがよくあったそうです(林房雄『随筆池田勇人』サンケイ新聞社出版局、一九六八年、八三頁)。
日本は中国大陸全土で、泥沼の支那事変にのめりこんでいます。七大都市を落とし、敵首都を重慶の山奥に追いやったのに、米英ソの三国が支援するから中国は降伏しない。それだけの戦費を支えるために、国民には増税に次ぐ増税です。
「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは!」などと自粛生活が強要され、隣の人の生活をお互いに見張るような同調圧力が社会全体に広がります。しかし、政府は事態解決の見通しを示せず、雲をつかむような話ばかりなのに、批判は許されない。